忍者ブログ
主観的な内容ばかりなので閲覧注意です。どうでもいいことも多く書いてます。
[55]  [54]  [53]  [52]  [51]  [50]  [49]  [48]  [47]  [46]  [45
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 昨日寝る前に家康の特徴というか家康らしさというかその特筆すべき性格や生き方について考えてみた結果、とりあえず一個断固としてあるものを思いつきました。
 といってもそれは私目線での勝手な家康像に基づくものなので、他の人から見ていやそれはねーよwwwみたいなことでもまぁキャラクタを見る目は十人十色なのでお許し願いたいです。まぁあれです。うちの子設定って奴です。

 で、本題。家康は基本的に「優しい・寛大・自己犠牲・お節介・絆厨・エトセトラエトセトラ」とあるわけですが、私はまず家康の「公私の異常なまでの切り離し性」を推奨したいわけです。というか、します。

 そもそも家康の矛盾点として多く指摘されがちなのは、人と人との繋がりをよく説いておきながら友人であった三成との縁を一方的に断ち切ったり秀吉を殺したりなんだり、「おめーそれでよく人と繋がってるって豪語できんなぁおい」みたいなことなんですが、家康は全体を見るからに「三成も秀吉も殺したかった」ようには見えないわけですよ。三成を殺さないと天下が平和になれないと思う反面、同時に三成が更生(というのも変な話ですが)(自分のことを考えて復讐をやめ静かに暮らすとか)するという願いを勝手に断ち切らなかったわけです。「三成を追い詰めたいわけではない」けど「だが、勝つ」という言葉を踏まえて、最終的に私が至った家康さんは詰まる所、「一個人としての徳川家康(地位・名誉関係のない人間)と、徳川軍総大将であり東軍総大将である徳川家康」の思考や感情をまったく別のものとして用意している、ということです。

 まぁ三成と較べると物凄く分かりやすいんですが、三成は明らかに公私混同してますよね。自分の復讐のために豊臣軍を使ってる(使う気が自分でなくとも)(豊臣軍は全て秀吉のために使われるべきなので復讐もやるべきという方向になってるものと思われる)わけですし。
 その反面、家康は「豊臣軍で世話になった人、親しくなった人、友人、知人を含め全てを守りたい助けたい」という私事と、「天下太平のために豊臣を下す」ということを別ものにとってるわけです。
 そして私事<<<<<<<<(越えられない壁)<<<公事としてとってるわけです。
 平和のためなら友人でも知人でも親友でも敵に回せるほど「個としての徳川家康」に関心がない「東軍総大将徳川家康」。

 軍の総大将ならそれは当たり前だろ!? と思われるんですが、でもBASARAで公私混同しない人物って、居ないんですよね。毛利ぐらいじゃないですか?
 伊達は勿論国のことを考えてますけど、戦をパーティと称して、しかも石田を殺す時には「理由はいらねぇ。アンタを殺す」と断言しています。戦に明らかに私事が入ってます。幸村も「一人の武人として、家康に勝つ」みたいなことを言っていますし、それは他のキャラにしても同じことです。
 結局、BASARAの総大将はだいたい、「自分の目標」をメインに動いているわけで、つまりそこには確実に私事が入るわけですよ。でも家康の場合、その「自分の目標」が既に「周りの人々の希望」なわけで、そこには「自分自身の希望」が含まれていないわけです。いや、天下太平が家康の望みだということが嘘というわけではなく、結局その希望と自分の願望(友人を守りたい等自分の私事)が重なってないってことです。

 公事にのみ生きる「徳川家康」にとって、「個人の徳川家康にとっての友人」は結局「一人の民」にしか相当しないわけです。家康がどれほど親友だと思っていても、結局戦をする家康にとっては一兵、一農民となんら変わりのない生き物に値するわけです。
 公事の「徳川家康」は大将を「面白い男」だの「素晴らしい武人」だの評価はしますが、そこに友人とかそういう観念を突っ込んでこないわけです。

 じゃあ元親は? あいつに会った時戦場だけど凄く反応してたよね? となるわけですが、やっぱりあれは元親が特別仲がよかった、と割り切るしかないでしょう。多分戦場で会ったとき、勿論家康は「元親じゃないか!」と凄くテンション上がってましたが、元親が己を恨んでいて、そして己を殺す気である、と理解した時点で、「相対するは西海の鬼、長曾我部元親殿とお見受けする!!」とか私事を切って捨ててます。家康にとって元親はその程度だったのかよ、ということではなく、ここは単純に、家康の公事を重視するというやり方が尋常ではないと判断した方が良さそうです。

 三成を殺した後、元親に殺される前、結局「戦が終わった」や「死んでしまう」ということで、公事を優先する必要がなくなった家康が、今までの切り捨てたものを拾い集めるようにただ自分の感情を吐露したあの家康は、あれこそが「一個人としての徳川家康」だったんだな、と思いたいです。殺したくなかったし、殺されたくなかったし、友人を守ってあげたかった家康。

 詰まる所家康は毛利みたいなもんなの? という話なのですが、それもまた違うと思います。家康は私事を切って捨てて、己を守ってましたが、毛利はそもそも、守る己がないわけじゃないですか。毛利は公私混同する以前に、その私事が無い、と私は思ってます。
 いや、結局毛利も人間なので、私事がないなんてことはない、ということがアニキの緑ルートのマジ切れした毛利を見れば分かるんですが、あれはどっちかというと、毛利も毛利でそんな自分に気づいてなかったんじゃないかな、と思います。家康は自分のことを無理やり捨て切って前に進もうとしていたけど、毛利はそもそもそんな自分にすら目が行っていなかったんじゃないかと。そうでないとあんな外道みたいになれない・・・と思いたいです。いや、むしろ毛利は「自分自身に興味がない」んじゃないかなーと、今思いました。いやまぁ、とりあえず家康ですよ。

 まぁそんなわけで、私の中での家康の家康像はこんな感じでした。いや他にも色々あるんでしょうが、根幹はここかなーと。「人である家康」と「人ではない家康」というのが簡単かもしれませんね。総大将である「人でない家康」が、誰にも理解されずまた人を理解することもない、みたいなのは多分、その尋常じゃない「人らしさの無さ」が意味するものなら、「人である家康」が守られたらいいなー、とそういう希望でした。
PR
カレンダー
02 2024/03 04
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
藤下
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R
忍者ブログ [PR]